それから、毎日元気付けながら看病に努めたが、少しも病状は回復しないまま、ひと月後に、37歳の若さで息を引き取った。
母はどれほど私の卒業を楽しみにしていただろうかと考えると、無念さがこみ上げて泣けて仕方なかった。
母の葬儀を済ませ、夏休みも終わって学校に帰っても、これからの祖母の苦労や弟妹たちのことを考えると、一気に気力が抜けたような思いで、何日か勉強する気にもなれなかった。
ようやく気持ちを取り直して勉強に励むように努めた。
ある日、校医の検診が行われた。検診の結果、肋膜炎を起こしているという宣告を受けた。考えると1年生の時から剣道部に入っていて、時々息苦しい時があったが、別に気にもしていなかった。
校医からは、運動はしばらく休んだほうが良いと言われて剣道部をやめることにした。しかし、放課後みんなが楽しそうにスポーツ活動をやっているのを見ていると、じっとしていることが退屈で、外でやる運動なら、健康の為にもよいかもしれないと考え、器械体操部に転向することにした。
高等小学校2年間、K先生から鉄棒や跳び箱運動の基礎は十分に鍛われていたので、ある程度のことはできる自信があった。そして卒業まで器械体操の練習に励んで行った。
おかげで健康に自信が持てるようになり、後に学校に勤めてからも体育主任として活動ができた。そしてこの歳まで健康で体力を維持し、長寿に繋がっているのかも知れないと考える。
二学期も終わり、冬休みに帰省しても、母のいない寂しい正月を過ごして、学年最後の三学期の学校生活が始まった。
2月には、県の奨学金制度の試験が控えており、一段と気を引き締めて勉強に励んだ。
2月の中頃、県庁で学科試験と面接が行われた。その数日後に、合格の通知を受け、4月から奨学金が支給されることになった。県と町からの奨学金で、家からの学費の仕送りは必要がなくなり、卒業まで安心して学校生活が送れるようになった。
日中戦争も、ますます激しくなり、戦場は中国全土に拡大していき、時々白木の箱に収められた戦死者の遺骨が帰ってくるのを見られるようになった。
やがて、3年生に進級した。寮生活も、最も活動が盛んになり、3年生が中心になって寮祭などを企画し、全寮あげて仮装隊などを繰り出して盛大な催しを開催した。部活動も下級生を指導する立場になった。富高小からも2名の後輩が入学してきた。
年に1回、体力づくりのための、青島までのマラソン大会が実施された。各クラス毎に1本のロープを握り、全員が完走して優賞を競うやり方で、私たちのクラスは毎年優賞していた。また、元気に任せて校則違反の行動をしたりする者もいて、担任のS先生に心配をかけることもあったが、今は懐かしい思い出となっている。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.4
〜師範学校入学〜 Section.4(日中戦争勝利、そして真珠湾攻撃へ)
0コメント