じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.4 〜師範学校入学〜 Section.4

 こうした1年も過ぎて、4年生になったが、当時は3年生までを予科と呼び、4年生から本科生と言っていた。

本科生になると、中学校からの編入生と共学になり、学級編成が行われた。その後、学制改革により、本科は修業年限が1年延びて3年間となった。


 世相は、ますます戦時色が強くなり、軍事教練も強化されていった。

毎月1回、月始めの6時の起床ラッパで、全員が軍靴にゲートルを巻いて、三八式歩兵銃を肩にして、四列縦隊に隊列を組み、行進ラッパに歩調を合わせながら、宮崎神宮参拝が毎月の行事として実施されるようになった。

また、農繁期には、学年単位で宮崎近郊の清武や本庄、綾町あたりまで、農家の勤労奉仕作業に出かけることも度々あった。農家の若い働き手が、軍隊に召集を受けての労働不足を補う為の勤労奉仕だった。往復歩いての奉仕で疲れを感じたが、それぞれの農家で、腹一杯ご馳走になるのが何よりの楽しみだった。


 昭和12年7月から4年間続いた日中戦争も、日本軍の勝利のうちに終結を迎え、国民は戦勝気分に満ち溢れていた。

しかし、日本軍の戦死者は40万人を超えていた。

時の軍部は、多くの犠牲を顧みることなく、国民の戦勝気分に乗じて、「大東亜共栄圏の建設」というスローガンを掲げ、米・英・仏・オランダの連合国を相手に開戦を決め、昭和16年12月8日に未明、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をくわえ、米国の太平洋艦隊を壊滅の状態にした勢いで、無謀とも言える太平洋戦争を開戦することになった。

 開戦当時は、陸海空の連携作戦により破竹の勢いで、東南アジア、南方の国々へ進攻を続け、時の軍部は短期間で終結するような目算を持っていたようだが、次第に泥沼化していき、4年間に渡る悲惨な戦争へと拡大していった。

この間、3百10万人とも言われる多くの戦死者を出しながら、果ては無条件降伏という無残な結末になった。

この間国民は、苦しい耐乏生活を強いられてきた。食料品や衣料品、日用品まで配給制となり、「ほしがりません、勝つまでは」と戦争遂行の為に、犠牲を強いられた毎日が続いた。

師範の寮生活も、食事制限となり、食べ盛りの我々には我慢ができなく、たまの外出時には、飯蓋をぶらさげて出かけ、帰りには「うどん玉」を何食分も買ってきて腹を満たすことが多かった。

 開戦後1年を過ぎた頃から、南方の島々戦闘で、日本軍の玉砕(全滅)のニュースを耳にするようになってきたが、国民は、日本は神国だから負けるはずはないと信じていた。

時の政府は、国家総動員令、国民精神総動員令の発動、やがて学徒動員令と次々と発令し、国民の結束を図ってきたが、戦況は次第に悪化の道をたどり始めた。

やがて昭和18年を迎えると、戦況はますます厳しくなり、国家存亡の危機感を思わせる情勢になってきた。4月の新学期を迎え、卒業学年時次に進級すると間もなく、軍事講習が実施されることになり、都城の歩兵二十三連隊に2週間の体験入隊が実施された。


▪️次回の予告

じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.4

〜師範学校入学〜 Section.5(戦死を覚悟、航空隊へ志願)

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