じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.4 〜師範学校入学〜 Section.1

 昭和13年4月8日、待ちに待った師範学校入学の日を迎えた。

入学式には、父が付き添ってくれた。宮崎に着いてから、先ず、受験の折にお世話になったN山先生宅を訪れてお礼を申し上げた。元気で頑張るように激励の言葉をいただいた。

当時5年生に、塩見出身のM木さんが在学されており、色々と面倒を見ていただいた。

入学式が終わって、寄宿舎に案内され、各室に1名ずつ配属された。

当時、師範学校は全寮制で、全校生の400名が寮生活を送っていた。各室には、1年生から5年生の一部生と、中学校から編入した二部生とが同室で、7名が起居を共にしていた。

1年生の役割は、部屋の掃除から、食堂での配膳係、夜は上級生の布団敷まで、忙しい役割が与えられていた。

朝は、6時の起床ラッパに飛び起きて、顔を洗う間もなく10分間で部屋の掃除を済ませ、全員が中庭に集合して、点呼と朝礼が毎日行われた。目の回るような生活だったが、半年も過ぎると、寮生活にも慣れてきた。

日中戦争も2年目を迎え、世相も戦時色が強くなり、寮生活も軍隊式になった。教科の中にも軍事教練が必修となってきた。

学校の倉庫は武器庫となり、三八式歩兵銃が生徒数ほど整備され、銃の手入れに責任を持たされた。

配属将校も2名配置され、毎日軍事教練が実施されるようになった。


 入学してから、ようやく一学期が終わり、夏休みを迎えた。

4ヶ月ぶりに我が家に帰省して過ごすことになっても、夜中にふと目を覚ますと、寮に寝ているような錯覚にとらわれることが何度かあった。

休み中は、家の農業の手伝いをしたり、暇な時は、小学校時代の友達の家に遊びに行ったり、時には塩見川に貝掘りや釣りで終日を過ごすこともあった。

やがて、夏休みも終わり、第二学期の学校生活が始まった。

日中戦争も、いつの間にか中国全土に戦場が拡大し、新聞やラジオのメディアも、戦争の報道や記事で満ちており、大きな戦果があると、町では盛大に提灯行列が行われた。

学校ではますます軍事教練が強化されていった。

このような世相の中に、1年の生活も終わり、4月には2年生に進級した。

新1年生も入学してきて、役割も少し楽になってきた。

この年は、富高小学校からも後輩が3人も合格して、寮生活も楽しくなった。暇な時は4人でよく話し合った。休みで帰省した際は、互いの家に遊びに行って話し合った仲だったが、3人共、不幸にも病魔に侵されて、若くして既に他界してしまった。


在学中の寮生活は楽しかったが、世相の変化に連れて、寮の規則も厳しくなってきた。


▪️次回の予告

じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.4

〜師範学校入学〜 Section.2(父の苦労、母の病)

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