じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.3 〜師範学校合格〜

 合格発表は1週間後、学校宛に電報で通知されることになっていた。二晩お世話になったN山先生と奥様に厚くお礼を申し上げて宮崎を発ち、家に帰った。

母はいろいろ尋ねたが、もし不合格だったら工業学校の建築科を受験して、将来は父の後継ぎをしようと考えた。

やがて合格発表の日がやってきた。学校へ行っても早く結果を知りたい気持ちで落ち着かなかった。

4時間目の授業が始まって間もなく、教頭先生が教室に見えて、校長室に来るように言われた。

胸をドキドキさせながら校長室へ行くと、校長先生がニコニコしながら「よく頑張った、合格おめでとう」と電報を見せられた。そして教頭先生に「全校生を講堂に集めてください」と言われた。教室に戻ってK先生に合格しましたと電報見せると、「よし、みんなで拍手しよう」とクラスのみんなも喜んでくれた。

しばらくして2千人余りの全校生が講堂に集まると、校長先生が私をステージの上に呼んで「I君が見事師範学校に合格しました。みんなで合格を祝って万歳をしましょう」そして「何でもやればできる、天にものぼることができる、みなさんもしっかり頑張りましょう」と全員で合格を祝ってくれたことを思い出す。

 受け持ちのK先生も、大変喜ばれて「この電報を持って、すぐに家に帰ってお母さんに見せなさい」と言われ、走って家に帰った。

「合格したよ!」と電報を父や母や祖母に見せると、みんな大喜びで、夜は赤飯を炊いて家族で祝ってくれた。そして、立派な先生になるように励ましてくれた。宮崎のN山先生宅にも、合格したことを報告して喜んでいただいた。 

 

 やがて、3月25日の小学校の卒業式を迎えた。

母のおかげで8年間の学校生活を、無欠席で卒業したのは全校で2人だけで、卒業記念に立派な辞書をいただいた。

卒業後は、同級生もそれぞれの進路に分かれてしまったが、春休みは互いの家に遊びに行き、別れを惜しんで遊んだ。

 

 当時の世相は、昨年の7月7日に日支事変が勃発してから、次第に戦火が拡大して全面戦争となり、日中戦争と呼ばれるようになってきた。

毎日のように、兵隊を満載した軍用列車が通過していくのを、日の丸の小旗を振って見送った。


春休みもいつの間にか終わって4月を迎えた。師範学校に入学式も近づいてきたので、母はいろいろと、私の身の回りのものを準備していた。私も、希望に燃えて入学の日を待っていた。


▪️次回の予告

じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.4

〜師範学校入学〜 Section.1(世相の変化、強まる戦時色)

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