じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.2 〜小学校時代〜 Section.2

 4年生はM先生が受け持ちになった。

ある寒い時期のこと風邪を引いて発熱して学校を休もうとしたら、母が「今まで無欠席で来ているのだから学校に行って早引きをすればよいが」と私を背負って行き、2時間授業を受けて帰ったこともあった。

翌日、先生が母の熱心さに感心されていたこともあった。


 5年生は書道の上手な方が受け持ちになった。

放課後には、外のクラスの者も習字の特別指導を受けていたので、私も一緒に受けることにした。秋の十五夜祭りの、書道展には条幅(※掛け軸サイズのこと)を書いて展示してもらったこともあった。現在、人並みの毛筆が書けるのは、この頃先生から基礎指導をしていただいたおかげだとありがたい気持ちを持っている。先生は、後に延岡女学校の書道の先生になられ、退職後は、郷里の日南市で書道の振興に尽力され、文化功労者として表彰される程の書家になられた。


 6年生はA先生が受け持ちになられた。

当時は家庭の裕福な者は、延岡市にある中学校や女学校の入学試験を受けて、卒業後は進学する者が何人かおり、放課後は特別指導を受けていた。私も母が頼んで、一緒に勉強を受けていた。

卒業後には、今まで競争相手だった級友の何人かが中学校に進学して行ったので、少し寂しくなったが、日曜日には家に遊びに行って、話合ったりして交友を続けていた。


 尋常科6年生の卒業式を終えて、4月の新学期からは高等科へ進学することになった。

40名程の者が中学校や女学校に進学して行ったので、クラスも1つ減って、男子が2クラス、女子は1クラスになった。1クラス50数名のすし詰め状態となり、先生の机間指導はできなくなった。今になって考えると、担任の先生は、学級管理も苦労されたと思われる。


 高等科は2年間で、担任はK先生で、隣のクラスはK先生だった。

どちらも細島出身で卒業まで受け持っていただいた。

工藤先生はスポーツ万能で体育が得意、特に短距離の速いことで有名だった。当時は細島の自宅から、約4キロの道を朝夕歩いて通勤されていた。毎朝決まった時間に家の前を通られるのを見て、母が時々声をかけてあいさつをしていた。勉強も厳しかったが、鉄棒や跳び箱などの器械体操は、段階的な進級制のカードがあり、みんな休み時間や放課後には互いに練習に励んでいた。

後に私が、師範学校で器械体操部で活動できたのは、この頃の先生のご指導のおかげだったと思う。

そして先生は、私の母の願いを重く受け止められており、自分の宿直の夜は、私を学校に呼んで夜半近くまで受験勉強の指導をしていただいた。母も時々授業参観にやってきて気合を入れていた。

こうして1年があっという間に過ぎていった。やがて高等科2年の4月を迎えた。いよいよ正念場を迎えた気持ちになった。


▪️次回の予告

じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.2

〜小学校時代〜 Section.3(師範学校試験へ)

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