私は大正12年5月28日生まれとなっている。
父「菊治」と、母「マツエ」の長男として現在の日向市原町で生まれ育った。
下に弟が2人、妹が3人の6人兄弟だったが、次男と長女と三女はすでに他界している。
幼少の頃の思い出はほとんど記憶には残っていないが、長男として両親の期待が大きかったのか、母は特に入学前から「カタカナ」の読み書きを教えて入学後の成績に期待していたようである。
私も早く学校へ上がりたい気持ちが強かった。
満6歳を迎えた昭和5年4月、心待ちしていた富高小学校への入学式がやってきた。
当日は母に付き添われて学校へ行った。入学式がすんで4つのクラスに分かれて教室に入った。
1年生は男女混合の50名程が1クラスになっていた。受け持ちの先生は鼻ひげを生やした年配の方だった。氏名点呼がすんでから、みんなの顔を見渡しながら「みんな今日から1年生です。誰か字の書ける人がいるかな」と言われた。
もじもじしていると母が小声で「手をあげんね」というので「ハイ」と元気よく手をあげた。そして前に出て黒板に大きく「ハナ」と書いた。先生が「よく書けたね」と褒められ、みんなも手をたたいてくれた。家に帰ると、母が自慢顔に家族の者に話していたのを今だに記憶に残っている。
それからは毎日学校へ行くのが楽しかった。おかげで成績もクラスの上位を占めていた。
父は若い時から大工をしており、行く行くは私を後継者にしたいと思っていたようだった。私も、父の仕事に興味を持っており、学校から帰ると、時々父の仕事場へ行って、木切れをもらって工作の真似事をして遊んでいた。そのせいか日曜大工をひとつの趣味にしている。
しかし母は、将来は学校の先生にしようと考えていたようで、毎晩勉強させられた。毎月1回は黙って授業参観に来ていたので怠けることができなかった。夜は夕食が終わると机のそばで、針仕事をしながら勉強を見ていた。
今考えると現代風の教育ママを思わされる。私も入学してからは、1日も休まず卒業まで無欠席を通した。
2年生からは、男女別々のクラスになり、男子は2クラス、女子が2クラスになり、6年を卒業するまで同じクラスだった。
卒業後は、それぞれ進路を異にしながら20代の青春時代は、太平洋戦争の真っ只中で、戦争の犠牲になった同級生も20数名もいた。
当時の我が家は、祖母と母が2人で田畑ニ反程度の農業を営んでおり、生活もゆとりもなく、学校から帰るといつも畑に呼び出されて草取りなど加勢をさせられた。
そして母は、草取りをしながら、よく昔の偉人の話をしてくれた。
「昔の偉い人は子どもの頃から人一倍苦労をしながら努力をして偉い人になっている。お前も立派な先生になるためには、今からしっかり勉強をしておかないと師範学校には通らないよ」といつも言い聞かされていた。
2年生の受け持ちの先生は独身の若い先生だった。
いつもにこにこしておられ、近くの公民館に間借りをされており、朝晩の食事と風呂は、私の母が面倒を見ていた。夕方風呂に来られると、「親の言うことをよく聞けよ」とよく言われた。私も、夜勉強がてら泊まりに行くことも何度かあったが、ある晩夢を見て寝小便をしてしまい、夜明け前にそっと家に帰って母に告げて、こっそりと後始末をしてもらったこともあった。(孫:笑)
母が私の将来のことを話していたのか、先生からもいつも励まされた。後に、私が師範学校に合格した時には、赴任先の学校から祝電をいただいた。
3年生になったら童話の上手な先生が受け持ちになった。1日の勉強が終わると、帰る前に必ず10分程度童話をみんなに聞かせて、「明日も元気で来なさい」と励まされていた。後に私が師範学校で「童話研究会」を創って活動するきっかけになったのもこの先生の感化があったと思う。また、退職後「東先生」は富高幼稚園の園長を10年間勤められておられたが、ご退職後、私がその後任として園長を5年間引き継いだのもこの時代からの不思議な縁があったものと思う。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.2
〜小学校時代〜 Section2(4年生〜)
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