「人生五十年」と言われた時代を過ごしながら、いつの間にか亡き父の寿命を遥かにこえて傘寿の節目も無事に乗り越えてきた。現在元気で、毎日朝のウォーキングを楽しみに八十路の坂を登っている自分の姿を見つめながら夢のような思いに駆られる日々である。
今や人生80年時代と言われる長寿社会になったとはいえ、毎日元気で生きている幸せに感謝しながら、数十年前の波乱に満ちた時代を思うと感慨無量の思いがする。
10代から20代にかけての青春時代は、日中戦争から太平洋戦争の真っ只中で、戦時色に溢れた世相の中に、学校生活も軍事教練の毎日だった。
昭和18年、師範学校卒業学年を迎えた頃は、学徒動員令による強制的な軍隊への志願によって卒業も半年繰り上げられ、卒業と同時に兵役に服し、2年6ヶ月の軍隊生活を送った。
その間2年間は南方の戦地に従軍し、幾度か生死を境にする場面に遭遇しながらも、運良く九死に一生を得て復員し、祖国の土を踏むことができた。
今だに当時の夢を見ることがある。
戦地からの復員当時は国土は荒廃し、戦後の混乱期の中に食料難で、食べる米はなく甘藷(カンショ※サツマイモ)の切り干しや芋の葉を茹でたりして飢えを凌ぐ毎日だった。
やがて若者が復員するに連れて米作りや食料生産が出来るようになり、国土復興への姿が見えてきた。
復員してから6ヶ月目に復職が叶い、母校の富高小学校の教師として奉職することになった。
以来36年6ヶ月、県内の7つの学校に勤務しながら、それぞれの学校に楽しい思い出を残して、昭和57年3月、日向市立岩脇中学校校長を最後に退職をした。
退職後の第ニの人生の過ごし方を考える余裕もなく、翌日からは日向市福祉事務所の家庭児童相談員の委嘱を受けて2年間市役所勤務となった。
2年を過ぎた時、学校法人富高幼稚園の理事長から、幼稚園長就任の要請を受けて、5年間2つの園の園長を兼務する事となった。
毎日孫のような園児たちとのふれ合いは楽しかった。
無事5年間を勤め、これから自分の自由な生活が確保できると思っていたが、待っていたのは地区の公民館長の役だった。
いつかは地区の為に奉仕しなければと思いながら、要請されるまま副区長2年、区長2年と区の行政に携わり、区民との交流を深めることができた。
その間日向市の高齢者クラブ連合会長を11年間勤め、その他、人権擁護委員を9年間、退職公務員連盟の支部長など、次々に役職が増え、毎日が多忙な生活の連続だった。
平成18年3月、ようやく多くの役職から解放され自由の身となり、ひと月ほど朝からのんびりとした生活を過ごしていた。
ところが長年の生活習慣からか、のんびりと過ごすことが退屈になり、このような生活は心身ともに老化を早め、気力を失うことになりかねないと考え、これからの人生を健康で生きがいのある人生にする為には、何かボランティア活動をやろうと思い立ち、高齢者の健康づくりアドバイザーとして、健康づくり事業をやることにした。
名称を「高齢者健康づくりふれあい交流会」と名付けて会員を募集し、5月から開設実施することにした。
現在20数名の会員が参加して、毎月1回2時間程のプログラムを組んで実施している。
内容は、今の高齢社会で問題になっている認知症の予防対策や、寝たきり予防の転倒防止などを重点として実施している。
まず自分自身の健康保持を考えながら、共に会員の心と体の健康づくりを目標として、元気な間は継続していこうと考えている。
還暦から今日までの時間よりは、100歳までの距離が近く感じられるようになってきた。
人生100年を目指して、食事、睡眠、休養のバランスを常に考えながら、健康寿命の延伸に努め、一日一日を生きがいに満ちた人生を積み重ねていこうと追憶として、したためた次第である。
平成二十年四月一日記す(八十四歳)
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.2
〜小学校時代〜
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