親任式を済ませた昼頃だった。郵便屋さんが、私宛の軍事郵便を届けられた。もしやと不安な気持ちで開封して中身を見ると、陸軍航空総監からの命令書だった。
「十月七日午前十時に、仙台陸軍飛行学校に入校を命ず」という命令書だった。
いつかは来るものと覚悟はしていたが、一瞬目の前がかすんで、もう一度読み返してみた。
明日からの楽しみは一転して悲壮感に変わり、校長先生に命令書を見せて「お国の為に奉公することになりました。頑張ってきます」と、師範在学中に航空隊を志願していたいきさつをお話申し上げた。
校長先生も「それは残念なことだが、教育に専念することも、軍隊に勤めることも同じ国の為です。武運長久をお祈りします。明日は子供達との告別式を致しますのでお出ください」ということで、暇をもらって家に帰り、家族に事情を話した。
祖母はびっくりした顔で、航空隊に志願したことを悔やんでいた。
翌日は、学校で先生方や児童達との告別式が行われた。私は子供達に「先生はこれからお国の為に軍隊に入って頑張ってきます。みなさんも苦しさに負けず頑張ってください」と別れの挨拶を済ませて帰宅し、近所や親戚回りをした。
それから2、3日は入校の準備や役場での手続きなど済ませて、5日の朝出発することにした。
5日の早朝、家の前で、家族や親戚、近所の人々の歓呼の声に送られて家を後にした。
祖母は泣きながら、家の中から見送っていたが、私が戦地から復員する2週間前に亡くなっており、この時が永久の別れになってしまった。
富高駅では、大勢の小学生が、日の丸の小旗を振って「万歳々々」と見送ってくれて郷里を後にした。
2日2晩汽車にゆられ、途中、東京駅で乗り換えて7日の朝、仙台駅に到着した。
駅には、大勢の国防婦人会の人たちが出て湯茶の接待をしておられた。
次々に到着する同期生の者と合流して、仙台飛行学校に無事入校することができた。
同期生の名簿を見ると、出身地が全国にまたがっており、九州出身者も30名程いた。
全体では120名だった。入校式が住んで30名ずつの四小隊に編成されて、私は吉川少尉の小隊になった。
翌日から早速小隊ごとの訓練が始まった。何しろ6ヶ月間で戦地で使える操縦者を育成するという目標が示されており、毎日が命がけの訓練が続いた。
一時は血尿が何日も続いて、自分は操縦には不適格かなと思いながらも訓練を続けていった。
そのうちに体調もよくなり、1日も早く単独飛行ができるようになりたいと訓練に励んだ。
当時の練習機は「赤とんぼ」と言われていたが、座席が前後に2つあって、操縦桿が前後に連結されており、後部座席の教官の手足の操作を真似て体得しなければならなかった。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5
〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.2(訓練が終わり、フィリピンへ)
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