毎日、全く初年兵と同じ訓練を受けながら、軍隊の厳しさを身にしみて体験した。
軍隊というところは、年齢、経歴には関係なく、1日でも早く入隊した者が先輩ということで、絶対服従という戒律ができていた。いずれは、このような生活が近く待っていると思いながらの2週間だった。この体験入隊が済んで間もなく、2週間後には海軍の軍事講習が実施されることになり、長崎の佐世保海兵団に2週間の体験入隊とすることになった。
軍港内に係留されている軍艦に寝泊りしながら、甲板の掃除の仕方やハンモックの使用法の訓練をされられた。最も鍛えられたのは、カッター(短艇)の訓練で、8名ずつ乗艇して、オールの漕ぎ方を繰り返し訓練させられたが、尻の皮がむけて、毎日パンツが血だらけになっていた。
こうして2週間の海軍生活の厳しさも体験した。
6月頃だった。突然、政府は学生を対象とした、特別志願制度を創設して、成人に達した者は、強制的に軍隊への志願を強要された。
1つは陸軍特別操縦見習士官制度、もう1つは海軍予備士官制度で、2度の軍事講習で軍隊の厳しさを味わってきた者にとっては、魅力的な制度だった。入隊時から幹部待遇という魅力もあったが、国内外の厳しい情勢と国家存亡の危機感をひしひしと感じながら、今は卒業後の就職など考えてはおられないと、互いに檄を飛ばしながら、同窓生全員が、それぞれの希望に分かれて志願することにした。
半数が陸軍に、半数が海軍にと志願して入隊を待つことになった。
私も、どうせ軍隊に行くからには、やがて戦場に行って戦死を覚悟しておかなければという思いから、雄々しく大空で散華したいと決意を固め、航空隊に行くことに覚悟をきめた。
祖母の反対を押し切って、陸軍特別操縦見習士官制度に志願することにした。
夏休みに、操縦生としての適性検査を受けることになり、同級生十数名で、東京の試験場まで上京して、適性技能試験を受けた。合格の内示をもらって、あとは入隊の知らせを待つことになった。
夏休みを迎え、皆それぞれの郷里へ帰省していった。家に帰っても、今年が最後の夏休みになるかも知れないという気持ちから、川遊びや釣りを楽しんだり、旧友家を訪ねて交流に努めたりしながら休みを過ごして行った。
やがて休みも終わって、第二学期の学校生活が始まったが、下級生の中には、軍需工場へ動員されて行っている者もおり、学校内も緊張感に包まれていた。
寮生活に戻ってから、1週間が過ぎた頃だった。突然学校から、本年度の卒業式を半年繰り上げて、9月23日に実施するからという達示がなられた。
いよいよ卒業式の当日は、全校生徒の揃わない中での卒業式となり、学校長から一人ひとりに、卒業証書と教員免許状が授与された。繰り上げ卒業となったが、卒業証書を手にしながら、しばし卒業の喜びと教職の資格を得た喜びを味わった。
卒業式が終わって、寮の同室の者に別れを告げて学校を後にし、入学以来5年間身元保証人としてお世話になったO先生宅を訪ねた。そして、無事卒業できたことの報告と、今までのお礼を申し上げた。先生も奥様も、大変喜ばれて「よく頑張ったな、子供達から敬愛される先生になりなさい」とお祝いと励ましの言葉をいただいた。
宮崎を発って家に帰ると、まず母の位牌の前に卒業証書と教員免許状を供え、無事に卒業できたことを報告した。母はどれほどこの日を楽しみにしていただろうかと思い出すと、胸がこみ上げてきた。
2、3日後、県から教員採用の辞令が届いた。見ると10月1日付けで「富高国民学校の訓導を命ず」という辞令だった。
途端に、自分が育った母校に奉職できる喜びで胸が一杯になり、10月1日を待っていた。
1日の朝は、いつもより早く起床して、身支度を整え、希望を胸に辞令を持って学校へ出かけた。校長先生に辞令を差し出し、赴任の挨拶を済ませた後、職員室で多くの先生方に新任の挨拶を申し上げ、今後の指導助言をお願いした。顔見知りの先生も何人かおられ、激励の言葉をいただいた。
やっと教職員の仲間に入れたという感激の思いが込み上げてきた。
その後、講堂で全校児童との対面式が行われた。校長先生から紹介を受け、全校児童に対して「今日から皆さんと一緒に、勉強をすることになりました。戦争に勝つまでしっかり頑張りましょう」と挨拶を済ませ、明日からの勤めを楽しみにしていた。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5
〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.1(新任の喜びも束の間に...)
0コメント