時々収容所に、日本兵の略奪行為を受けた現地人が米軍に告訴にやってきた。日本兵の名前を告げて、豚や鶏の家畜を強奪されたとか、家族が暴行されたとか、その度に現地人の言う姓名の者は招集がかかり、該当者が見つかると直ちにマニラの戦争犯罪人収容所送りになった。
その多くが憲兵あがりの将校が目に付いた。
いつの間にか昭和21年の新年を迎えたが、戦後の内地の状況は分からなかった。
3月の半ば、突然復員計画が発表された。将校は最後になると聞いていたので、皆驚きと喜びの声が収容所内に広がった。
米軍の説明によると、日本の内地は戦争の被害で街は荒廃し、食料も不足して、戦後の混乱が続いており、復興が急務となっている。早く就職可能な将校を最初に復員させることになったということだった。
帰国前3日間は、米軍の心づくしの特別メニューの食事が提供された。
3月20日、レイテ港から七千屯の貨物船を改造した輸送船に乗船して、内地への帰国の路に着いた。船長の話では、途中海が平穏であれば、1週間で東京の浦賀に到着する予定だと言っていた。
おかげで海も穏やかな船旅が続き1週間目の朝だった。
「富士山が見えるぞ」という声に、甲板に出てみると、遥か彼方の雲の上に雪をいただいた富士山の姿が目に入り、皆やっと日本に帰ってきたという喜びの表情に満ちていた。
やがて浦賀の港に着き、桟橋を渡って2年ぶりに祖国の土を踏んで感動を新たにした。
復員局で帰国の手続きを済ませて、原隊の名簿を確認すると、私は生死不明と記入されていた。
やがてそれぞれの方面に分かれて、復員列車が出ることになり、西日本方面の者は一緒に乗車して出発した。
列車はほとんど窓ガラスのない客車で、機関車の煤煙が容赦なく入ってきて、目があけられない状態だった。
1日過ぎた頃、広島の街にやってきた。
話には聞いていたが、見渡す限り一面瓦礫の原で、改めて原爆の恐ろしさを思い知らされた。そのような光景を目の当たりにして、その悲惨さを想像しながら通過していった。
夕方、小倉に着いてから、鹿児島県、宮崎県、大分県の出身者は、2時間程待って、別の列車に乗り換えた。
宮崎県出身者は50数名程いたが、ほとんどマラリアにかかった者が多く、帰郷してからの生活を心配していた。
翌日の早朝富高駅に到着した。雨が降っており、頭から合羽をかぶり、駅を出て先ず驚いたことは、富高小学校の2階建ての校舎が見えなかったので、敵の爆撃を受けてやられたものと思いながら雨の中を家に帰った。
後で聞いたところ、2度の台風で全部倒壊してしまったということだった。
家に帰り、中に入ると、みんな驚いて、まるで幽霊が立っているような驚きの表情をしていた。汽車の煤煙で顔も煤だらけで他人に見えたとのことだった。
家には生死不明という情報の連絡があっており、まさか生きて帰るとは思っていなかったとのことだった。祖母の姿見えないので聞いてみたら、2週間前に、私の身を案じながら亡くなったとのことだった。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.6
〜5け月間の収容生活〜 Section.3(念願の教職へ復職)
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