じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.6 〜五ヶ月の収容生活〜 Section.1

 翌日のこと、50人程の米兵の一団が山に登ってきた。初めて見る米兵の顔、青い目をして我々のそばに、にこにこしながら近づいてきて、「ユートモダチ」と言って握手を求めてきた。そして米兵の将校と花田少佐が握手を交わした。

通訳の終戦に至るいきさつと日本の無条件降伏を知り、いっぺんに気の抜けた思いに駆られ、7ヶ月の山中生活の無意味さと思い知らされた気持ちになった。

現在フィリピンに生存している日本兵は、今レイテ島の収容所に集結して、日本への帰国を待っているとのことの事だった。全員が一緒に山を下り、広い川原に設置されているテントに入った。ここで2日間過ごしたが、体の消毒や衣服の焼却、7ヶ月間伸び放題の髪や髭剃り等を済ませ、米軍から支給された下着や衣服に着替えた。それから川を下り、港の名前は記憶にないが、数隻の米軍の上陸用舟艇に分乗して、レイテ島へ輸送された。

そして、将校、下士官、兵隊と区分された収容所に入ることになり、7ヶ月間生死を共にした整備兵とも別れての収容生活が始まった。以来整備兵の面々とは再会する機会もなく音信不通となってしまった。

復員後、福岡の吉兼上等兵から葉書をもらって、懐かしさに家を訪ねたことがあった。

将校収容所には、1500人程の者が一張りのテントに20人ずつ起居を共にしており、寝具は毛布が1枚ずつ支給されていた。

一人ひとりに組み立て式のレザー張りのベッドが設置されており、改めて米軍の物量の豊かさに驚いた。衛生面にも十分留意されており、テントの回りの排水溝は毎日消毒させられた。トイレや洗面所は共同使用だったが、全然不自由は感じなかった。毎月ひげ剃り用の刃がひと月分支給され、毎朝髭剃りが強制され、朝の点呼では検査があった。5ヶ月間の生活が習慣化され、復員後から今でも、朝の髭剃りは欠かしたことはない。

毎日の生活は特に決まった日課はなく、自分たちで計画を立てて、野球をしたり、バレーボールをしたり、ダンボールで囲碁の道具を作って楽しんだりして過ごしていた。

将校の中にも色々な職種の者がおり、散髪屋ができたり、芝居の役者もいて、米軍から布地をもらって衣装を作り、月に一度演劇を見せたりしてみんなを楽しませていた。

毎日の食事は、パンに缶詰が多かったが、後には外米のカレーや焼き飯のメニューも出るようになった。夜には1週間に1回、アメリカの映画を上映してくれた。

年が明けて昭和21年を迎えたある日、隣の下士官収容所から、同郷の村田さんが突然訪ねてきた。マクタン島で別れた以来の再会だった。互いに無事であったことを喜びあった。

そして、どちらが先に帰るか分からないが、よろしく頼むと約束をしていたが、私が半年早く帰ることになり、復員後すぐに村田さん宅を訪ねて、元気でいることを報告した。まるで息子が帰って来たようだと両親が涙を流して喜んでおられた。


▪️次回の予告

じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.6

〜5け月間の収容生活〜 Section.2(日本への復員)

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