毎日セブ島の海軍基地から、特攻機が一機、二機と別れの翼を振りながらレイテ島の方角へ飛び立っていくのを見送りながら、日本軍の勝利を祈っていた。
1週間程の戦闘の結果、日本軍の連合艦隊は壊滅状態となり、レイテ島は米軍の占領地となってしまった。
我々は米軍の空襲で、飛行機を爆破されてからは、陸にあがったカッパ同然となり、敵の上陸に備えて、海軍の警備に当たる毎日だった。今や制空権も奪われ、海上も敵の潜水艦に封鎖された。日本からの物資補給は困難になり、蓄積していた食料も底をついて、自給自足の生活を余儀なくされるようになった。
みんなで荒地を開拓して畑を耕し、とうきびや甘藷の蔓を植えたりして食料対策を講じた。また、椰子林の中に自生しているタロ芋を掘って食べたり、椰子の実の汁を飲んだり、中の白身を食べたりしながらの生活が続いた。
こうして、昭和20年の新年を迎えたが、情勢は変わりはなかった。
毎日編隊を組んだ敵のグラマンが上空を通過していき、何も当てのない日々が続いた。
2月を迎えたある日、突然我々パイロットに転進命令が出て、隣のネグロス島へ転進することになり、セブ島の海軍の連絡機で2名ずつ移動することになった。夕方敵機の飛ばない時間帯に移動することになり、1週間余りを要して全員がネグロス島へ移動することが出来たが、ここも連日のように敵機の空襲が続いていた。
ここには数機の偵察機が保有されていたが、夜間の空爆で全機爆破されてしまった。
あとで知ったことだが、特攻機としての出撃が予定されていたとのことだった。
3月になって、再び転進命令が出て、ミンダナオ島からボルネオ島経由でシンガポールへ移動を命じられた。3月の中頃になって、ようやくボルネオ島からの輸送機が来ることになり、これも早朝か夕方の時間帯を利用しての移動で、まずミンダナオ島のザンボアンガまで移動して待機することになった。ここで次の移動手段を待っていた。
ここは飛行機の給油基地で、1本の滑走路と、竹内伍長を班長に若い20代の整備兵が、10名程小さな兵舎に駐留していた。兵舎からは、ザンボアンガの湾が一望された。ここは食料基地にもなっていたが、米を積んだ日本の補給船が湾の入口で、敵の潜水艦に撃沈されてしまった。備蓄されていたのは、整備兵の食料のみだったので、我々の食事は朝昼晩とバナナで過ごさなければならなかった。
1週間程して救援機がやってきて2名ずつ輸送することになった。私と広島県出身の土屋少尉が最後の番となっていた。
3月も終わる頃に、ようやく迎えが来るとの連絡を受けた翌日の未明、整備兵の騒ぐ声に起こされ、前の湾内を見ると、深い霧の中に10数隻の艦船らしい姿が目にはいった。これは夜明けと共に米軍の上陸作戦が始まるものと判断して、急ぎ整備兵に退避の準備をするように指示をし、それぞれありったけの食料と、日用品を背負わせて兵舎を離れ山手に向かった。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5
〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.6(運命の7ヶ月間の山中生活)
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