セブ島には海軍の戦闘機ゼロ戦の基地があった。そこから約3キロの海峡を隔てた対岸がマクタン島で、偵察飛行隊の基地があり、船で渡った。全島椰子林に囲まれていた。この飛行隊は朝鮮から移動した航空隊で、偵察機が5機と隊員が150名程の飛行中隊だった。隊長は、長田少佐という色黒のどっしりとした体格をしていた。
滑走路は、波打ち際から椰子林を切り開いて造成した、幅50メートル、長さ約700メートルの滑走路が造られていた。
隊長室で着任の申告を済ませ、任務についての説明を聞いた。この飛行隊の任務は、海上警備や船団護衛が主な任務で、熟練パイロットと共に交代で任務にあたることになった。
フィリピンという国は、大小1500以上の島々からなっており、交通手段は飛行機か船が利用されていた。当時は日本軍が制空権を確保しており、割とのんびりとした日を過ごしていた。
ある日、隊員名簿に目を通していたら、中に宮崎県富島町幡浦出身、村田軍曹の名前を見つけた。ここに同郷の者が居る奇遇に驚き、兵舎を訪ねてみたら、小学校時代の先輩だった。
お互いに懐かしさが込み上げ、奇遇を喜び合って話がはずんだ。一緒にいたのは9ヶ月程だったが、終戦後、レイテ島の米軍収容所で、1年ぶりに再会することができ、互いの武運を喜び合った。内地への復員後は、互いに家を行き来して当時のことを話し合っていたが、私より早く他界してしまった。
開戦から3年、戦争は泥沼化していったが、米軍はすっかり戦力をたて直し、膨大な軍事力によって、南方の日本軍の占領地を奪還しながら北上を始め、7月にはサイパン島が陥落した。多くの一般住民の日本人も犠牲になったという情報を耳にした。
そして米軍は、いち早くサイパン島にB29爆撃機の基地をつくり、フィリピン全土の爆撃を開始するとの情報が入り、昼夜警戒をしていた。
10月の初めだった、朝食を済ませて宿舎で休息をしていた時、遠くの方から飛行機の編隊と思われる爆音を耳にし、皆不思議に思って宿舎を出た途端、向かいのセブ島の山の上空から、30機程の米軍のグラマン戦闘機が急降下しながら、セブ島の海軍基地と、我々のマクタン基地に奇襲攻撃を加えてきた。わずか10数分の時間に全機が爆破され、滑走路の使用も不可能になってしまった。
セブ島の海軍基地も大きな被害を受けたようで、黒煙が幾条も上がっていた。
この日は、他の島々の基地も奇襲攻撃を受けた模様で、翌日からは毎日のように空爆に来るようになり、どうすることもできず敵のなすままだった。制空権は、完全に米軍に奪われてしまった。それから10月20日、レイテ島沖の日米海空総力をあげての戦闘が開始されたのである。
日本軍は米軍の膨大な物量作戦に対して、特攻作戦を取り入れた。
飛行機の機体に250キロの爆弾を固定し、敵艦目がけて機体諸共の体当たり戦法で、多くの熟練パイロットが犠牲になったと言われている。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5
〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.6(食料難、あてのない日々)
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