飛行場に降り立ってあたりを見ながら、3年前の開戦当時の日米軍の激しい戦闘を想像しながら、一面椰子林に囲まれた南国の風景に見入っていた。飛行場から市街地に通じる道路の街路樹は、すべて椰子の木だった。
飛行場から軍用トラックに乗車して、マニラの南に位置する「リパ」という飛行場に移動した。そこには平屋建ての兵舎が一棟建っており、周りを椰子の木に囲まれた1本の短い滑走路があった。そして実戦機と思われる飛行機が3機置かれていた。ここで3ヶ月間、実戦機による訓練を受けることになった。
教官は、航空士官学校出の20代の精悍な顔つきの若い少尉だった。教官の話によると、この飛行場は、我々特別操縦生の訓練基地として造られ、第2期生もここで訓練を受けていたが、状況が悪化してシンガポールへ移動することになり、船でマニラ湾を出たところで、米軍の潜水艦に撃沈され、多くの犠牲者が出たことを後で耳にした。
いよいよ訓練が始まったが、ここの滑走路は800メートル程の長さしかなく、フィリピンの島々の飛行場は、ほとんどこのような短い滑走路で、余裕のある離着陸は出来ないということだった。
ある日、同期生のひとりが着陸に失敗してオーバーランし、前方の椰子林に突っ込み、教官から激しく制裁を受けたこともあった。
ある日の夜、私は突然高熱が出て体調をくずし、緊急でマニラの陸軍病院に入院することになった。病名は南国特有の「デング熱」だった。
1週間入院していたが、4、5日でようやく回復した。南方で恐ろしいのは、マラリアだと聞いていたので、蚊には十分注意していたが、デング熱は一度かかると免疫が出来て二度とかからないと聞いて安心した。入院中にふと家のことを思い出し、戦地に来てからの近況をはがきに書いて野戦郵便局から発送し、家からの便りを待っていた。
2週間程過ぎた頃、父からの手紙と家族の写真が送られてきた。祖母や父、弟妹の元気な写真をじっと見ながら手紙を読んだ。鹿児島の知覧の出来事が詳しく書いてあった。
私からの電報を受け取ってから、祖母が急いで私の好きな団子やおはぎを作り、それを持って夕方遅く知覧の町に着いた。しかしどこの旅館も中学生の受験生で満員で、やむなく鹿児島まで引き返し、翌朝知覧に来て飛行場まで行ってみたが、すでに飛行機が飛び立った後で、泣くなく家に帰った。祖母も大変悲しんでいた。この写真を肌身に着けて訓練に励めという手紙だった。
その時の父の姿を思い浮かべて、思わず涙がこぼれ、いつまでも家族の写真に見入っていた。それからはいつも写真を胸に抱いて訓練に励んだ。
やがて3ヶ月の訓練も終わり、適正によって10名ずつ、戦闘機隊、偵察機隊、爆撃機隊と振り分けられ、私は偵察機要員として、セブ島の向かいのマクタン島に基地を持つ、偵察飛行隊に配属された。みんな互いの武運長久を祈って、それぞれの任地に発って行った。我々10名は、輸送機でセブ島まで移動した。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5
〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.4(戦争の泥沼化、特攻作戦の開始)
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