こうした一瞬の油断も許されない真剣勝負の毎日だった。気象学や航法学は、自学自習を要求された。
入校してから3ヶ月を過ぎた頃には、どうにか単独で離着飛行が出来るまでになった。しかし、訓練中に操縦を誤って、失速墜落して殉職した者も3名程いた。
単独飛行が出来るようになってからは、実践に備えるための高等技術訓練が待っていた。
宙返り、垂直旋回、急降下、不時着の要領など、教官の気合い棒に叩かれながらの訓練が続いた。
入校してから5ヶ月が過ぎた昭和19年の3月、30名の者がひと月早く卒業が認められた。そして、3機の輸送機に分乗して、日本一周の航法訓練を行った。飛行場を出発して途中大阪で給油をしてから、中国、九州の上空を南下して、鹿児島の知覧飛行場に着陸した。そこで輸送隊長が全員を集め「貴様たちは、一応飛行学校の訓練を終わったので、これからフィリピンの戦地で、実戦機の訓練を受けることになる。その後は、それぞれの適性により、現地部隊に配属されることになる。もしかすると、祖国の景色の見納めになるかもしれない。よく見ておけ、知覧には2泊の予定になっている」との説明があり、3、4名ずつ昔の武家屋敷に分宿することになった。
教官の話を聞いて、皆一様に驚きの顔を見合わせた。30名の中には九州出身者が10数名いたが、このまま戦地に行くからにはひと目、家族に別れの顔を見せたいという思いが湧き上がってきた。
皆で輸送隊長に願い出たが許可が出なかった。そこで一度宿舎に帰り、皆で戦地に行く自分たちの決意をしたため、各自署名をし、血判を押して再び願い出た。
隊長はしばらく黙想していたが、「よし、出発までに家族が見えるところは、面会を許可する」。その言葉を聞いて、近くの郵便局に走り、至急電報を続けざまに2通「戦地に立つ、すぐ知覧へ来い」と父宛に打った。
翌日は何人かの家族が見えたが、夕方まで父の姿は見えなかった。翌々日も、朝から飛行場の入口で待っていたが、とうとう来なかった。何か都合がつかないのかと半ばあきらめきれないまま宿舎で過ごしながら周りの景色を眺めていた。
翌朝は、出発が早くなり、夜明けとともに沖縄に向けて飛び立った。沖縄では2、3時間休憩した後、台湾へ向けて出発した。
夕方台北の飛行場に到着して1泊することになり、夕食後は夜の街を散策したり、宿舎から台北の夜景を眺めながら父や家族のことを思い出していた。
翌日は台南の飛行場まで移動して、機体の整備をし、数時間後フィリピンへ向け飛ぶことになった。
台湾を離れバシー海峡の上空に出て、機中から海上を眺めると、日本の輸送船団と思われるのが一列になって航行しているのが目にはいった。多分日本の兵隊を戦地に輸送しているのだろうと思い浮かべながら眺めていた。
やがて、マニラの飛行場が近づいて来た。初めて見る外地の飛行場である。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5
〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.3(デング熱、偵察飛行隊に配属)
0コメント