私の元気な姿を見たらどんなに喜んだだろうかと、2年間肌身離さず持っていた写真を位牌の前において、今元気で帰国したことを報告し、冥福を祈った。
翌日は村田さんとの約束を思い出し、幡浦の自宅を訪ねて、収容所で元気でいる様子や、やがて復員することなど話したところ、ご両親は「あんたの話を聞いて息子が帰ってきたような思いがする」と言って涙を浮かべて喜ばれた。
帰国した当時は食糧難で、食べ物は雑炊や甘藷の切り干しなどで、白米を食することはできなかった。
時折収容所の生活を思い出していた。
2、3日後、ようやく落ち着いてから富高国民学校へ出かけ、校長先生に帰国のあいさつを済ませたが、外地から帰った者は、適格審査に合格しないと教職への復帰は出来ないことになっていた。半年間は教師として子供たちの指導は出来ないということで、毎月のように宮崎の米軍の軍令部に呼び出されて思想調査が行われた。
特に将校は厳しかったようだった。
その間、毎日のように学校へ出かけては運動場でぶらぶらしながら子供が休み時間に出てくるのを待って、話をしたり、遊具で遊んだりしながら1日も早い復職を心待ちにしていた。
時には復職出来なかった場合のことも考えていた。
そのような様子を校長先生が見ておられたのか、校長室に呼ばれて話し相手になってくれたり、書類の整理を頼まれたりしながら毎日を過ごすようになった。
8月30日になってようやく教職員適格判定書を受け取ることができ、9月から安心して教職に就くことになった。
たまたま高等科1年女子級の担任が休職されることになり、そのクラスを受け持つことになった。子供たちも戦地帰りの教師に興味を持っていたようで、時にはびっくりさせられることもあった。
朝、学校へ出勤して教室に行き、机の引き出しを開けると、蛙が飛び出してきて、それを見てみんなで手をたたいて面白がったり、中には蛇を捕まえてきて振り回す子もいて、女の子らしい優しさの欠けている子も見受けられた。
これも長い間の戦争の影響かなと考えながら、半年間の指導を考えると、暇を見ては子供たちの家庭訪問を始めた。そのうちに子供たちも、次第に学習意欲が高まってきた。
あっという間に3学期も終わって、4月からは学制改革による新制中学校が設置されることになった。高等科2年生は義務的に中学校へ編入することになっていたが、クラスの子供たちはこのまま小学校に残りたいという希望が強かった。中学校から学校経営上困るからということで、保護者と子供たちとの合同会が開催され、新制中学校の仕組みや内容の説明をしたところ、子供たちも納得して、新学期から中学校へ編入されることになった。
復員してからわずか半年間の担任だったが、私に教師としての生きがいを与えてくれた子供たちとの別れを惜しみながら送り出した。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.6
〜5け月間の収容生活〜 Section.4(ばあちゃんとの結婚)
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