じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5 〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.8

 そして、2日後ようやくみんなに追いついた。皆喜んで、また一緒に山中を歩いた。

やがて8月を迎えた。別れた部隊の者はどうしているだろうかと案じながら、またどこかで合流できるだろうと思いながらの十数日が過ぎていった。

8月の半ばを過ぎたある日、突然米軍のマークを付けたヘリコプターが飛んできて、上空を旋回しながら、空いっぱいにビラを撒いて過ぎていった。何枚か拾って目を通してみると、日本語の文章で「八月十五日に日本軍は無条件降伏をして、戦争は終結をした。山中にいる日本兵は直ちに降伏をして山を降りてこい」という投降勧告のビラだった。みんな一瞬顔を見合わせ、ビラを手に「これは米軍のデマだ。日本が負けるはずがない」と、誰も信じようとはしなかった。

その後も何回かビラを拾ったが、みんな気にも留めずに行軍を続けていった。

 9月になった。食料には困らなかったが、塩分が欠乏して、体がむくんできた。何とか塩分の補給を考えなければと思案しながら歩いていたある日、山中では珍しい沼地に出会った。見ると、そこには野生の水牛が十数頭群れをなして遊んでいた。これも天祐とばかり、何とか一頭を仕留めて肉を確保しようと、群に近づいても動こうとしない。3人の整備兵に銃を構えさせ、一間程の距離から一頭の眉間を狙って発砲させたがビクともしないで立っていた。しばらくすると突然暴れ出し、沼から上がると、雑木を踏み倒しながら駆け出した。

それを見て、どこかで倒れるに違いないと、皆で後を追いかけだした。約3キロぐらい行ったところで倒れていた。みんなでようやくさばいて、主な部分の肉を切り取り、細かく切って、燻製にすることにして、各自背のう一杯に詰めて、谷川のほとりで燻製にした。食べてみると、結構塩分を含んでいた。毎日しゃぶりながら塩分の補給をしながら行軍を続けて行った。

みんな「俺たちはついているぞ」と喜びあった。いつの間にか9月も過ぎて10月になっていた。山中生活も7ヶ月になった。どれくらい歩いたのか見当もつかなかった。ただ、生きるしかないと、ひたすら北を目指して歩いていた。別れた部隊の様子も気になり、一度合流してみようと、コースを海岸寄りにとって歩いた。途中、死臭の匂いに近づいてみると、半分白骨化した日本兵が数人折り重なるように死んでいるのに出会った。多分餓死を思わせる程細くなっていた。10月23日ようやく合流することが出来、司令塔を訪ねて状況を聞いてみた。

話によると途中マラリアや栄養失調で多くの者が死んでいったと言うことだった。我々はほんとに運が良かったと思った。司令部でも何回かのビラのことが話題になっており、明朝、斥候隊と編成して、海岸までやってみて状況を確認することになり、早速十名で翌日の早朝白旗を掲げて山を降りていった。

その日の夕方のこと、今朝降りて行った斥候隊が大きな声で「戦争は終わっているぞ」と叫びながら山を登ってきた。それを聞いて皆いっぺんに緊張感がほぐれた。


▪️次回の予告

じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5

〜5け月間の収容生活〜 Section.1

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