山手には日本軍の地上部隊が構えていることを聞いていたので、部隊の司令部に行って、事情を報告してしばらく行動を共にさせてもらう事をお願いして、機関銃隊に配属された。これからが運命の7ヶ月間の山中生活の始まりとなった。
夜明けと共に、予想していた通り、敵の激しい艦砲射撃が始まった。上空には何十機というグラマン戦闘機が機銃掃射と爆撃を繰り返して行く。
山の上から見ていると海岸の地形がみるみるうちに変わっていった。やがて日本軍の抵抗がないのを見て、米軍の上陸が開始された。トラクターや建設機材も陸揚げされ、土地が整備されながら、兵舎の建設が進められていく。我々はその機動力を茫然と見ているだけだった。
周りの兵隊と見ると、ほとんど武器という武器は持っておらず、手榴弾と銃剣だけの武装で、機関銃隊に一丁も機関銃が無いといった状態だった。話を聞くと、上陸前に敵の潜水艦の攻撃を受けて着の身着のままの状態で上陸してきたとのことで、米軍の上陸に対しても無抵抗のままに後退せざるを得なかった。
上陸した米軍は、見る間に兵舎を建設し、夜は煌々とライトを付けて音楽を流すといった状態で、物量の豊富さに驚嘆させられた。
翌日から部隊は、次第に山奥に後退を続け、北の友軍基地を目指して山中を移動することになった。私と土屋少尉は、10名の整備兵に相談して、同じ航空隊仲間として一緒に行動し、運命を共にすることにした。
こうして、部隊と共に7ヶ月間の山中行軍が始まった。1日に2つも3つも山を越えながら、時には薄暗い密林の中を行くこともあった。膝も沈む程の落ち葉を踏み分けて行くこともあり、じっと立ち止まっていると、山ひるが何匹も這い上がってくることもあった。夕方には、谷川のほとりに、木の枝で夜露を防ぐ寝ぐらを作り、野営の生活が始まった。
2ヶ月を過ぎる頃には、食料も底をついてくるようになり、木の芽や野草を探して補充しなければならない状態になってきた。
兵隊の中には、野生の猿を撃ち殺して食べている者や、大きなニシキヘビを捕獲して輪切りにし、飯蓋で茹でて空腹を満たしている者も見かけた。
そのうちにマラリアが発生して、次々に倒れていく者、栄養失調で落後していく者が多くなってきた。我々の仲間の竹内班長もマラリアに感染し、高熱が続いたが、どうすることも出来ず、1週間後に亡くなった。遺体を埋葬して冥福を祈り、現地を離れた。
我々も次第に体力が弱ってきて、歩行も苦しくなってきた。何しろ部隊の最後尾を行くので、食べるものは全然手にすることは出来ず、ただ谷川の水を飲みながら飢えに耐えていた。互いに気力も衰えてき、私と土屋少尉は、「このまま部隊に着いて行っても餓死が待っているばかりだ。ここは運を天に任せて、部隊から離れて別行動をとろう」と皆を納得させて、一段と山奥のコースをとることにした。
後になって振り返ると、この判断がみんなの命拾いになった。
それから野草と水だけの行軍が10日程続いた。互いに気力を絞り、軍歌を口ずさみながら歩き続けた。
▪️次回の予告
じいちゃんが書いた自叙伝 Chaper.5
〜仙台陸軍飛行学校入校〜 Section.7(原住民からの救い)
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